日本文化と、治安、日本の未来である子供たちの安全を守るためのアバヤを着て、ニカーブで顔を覆う禁止を求める請願

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日本文化と、治安、日本の未来である子供たちの安全を守るためのアバヤを着て、ニカーブで顔を覆う禁止を求める請願

  • 提出先:衆議院法務委員会 理事/木原誠二議員
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作成者:日本桜

活動詳細

20年も前の私が20代前半の頃、都内で一人暮らしを始めた時のことです。住んでいた場所の近くには中東系の国の大使館があり、まだそのあたりは外国人をほとんど見かけることがなかったために外国人男性のグループが商店街で歩いている姿がとても目立ちよく目にしました。そして、その少し後ろを2分ほど遅れて、アバヤを着て、ニカーブで顔を覆った人たちが歩いている姿を見かけました。最初は「この人たちは家族なのか」と不思議に思っていましたが、その後も何度も同じような光景を目にするたびに、彼らの習慣について調べるようになりました。すると、彼らがイスラム教徒であり、近くにその大使館があることを知りました。

人生で初めて、全身を覆い、顔までも隠す衣服を身につけた人たちを目にした時の衝撃は、今でも強く記憶に残っています。

日本で生まれ育ち、日本の街の風景の中で生活してきた私にとって、顔も髪も身体の輪郭もほとんど見えない服装は、あまりにも見慣れないもので、その時の私は、恐怖に近い感情を覚えました。

初めてその光景を見た時、顔が見えないこと、性別や表情が読み取れないこと、身体全体が黒い布で覆われていることに、強い威圧感と不安を感じたのです。

日本社会では、人の表情や雰囲気、顔の見える距離感によって、相手がどのような人なのかを無意識に判断している部分があります
そのため、顔や身体の多くが隠されている姿を見た時、私は相手をどう認識すればいいのか分からず、強い戸惑いを覚えました。

 

「この人は誰なのか」
「どんな表情をしているのか」
「何を考えているのか」
「何を持っているのか」

 

そうしたことが分からないことに対して、私は本能的な不安を感じたのだと思います。

人生でさらに衝撃を受けたのは、中東に長く住んでいた友人から聞いた話でした。

彼女によると、全身をアバヤを着て、ニカーブで顔を覆った母親たちが、子どもを外に連れて遊びに行くことがあるそうです。
その場では、母親たちの顔や身体的特徴がほとんど見えないため、子どもが「お母さん」と呼びながらも、どの母親も同じ格好で顔を隠しているため、自分の母親が誰なのか分からず、違う母親に向かって走っていくと聞きました。

 特に幼い子どもにとって、母親の顔、表情、口元、目線、身体の動きは、安心や信頼を確認するための重要な手がかりです。

それが大きく隠されてしまう環境では、少なくとも日本で育った私の感覚からすると、強い違和感を覚えます。

さらに公共空間においては、顔が見えないということは、単なる文化的違いだけでは済まない側面もあります。


人を識別できない。
表情が読めない。
性別や年齢の判断が難しい。
何を持っているのか分かりにくい。
本人確認や防犯上の認識がしづらい。

 

これは、宗教への偏見以前に、公共の安全性や社会的な可視性の問題として考えられるべきです。

たとえば日本社会では、マスクや帽子でさえ、場面によっては不審に見られることがあります。
銀行、空港、学校、保育施設、行政機関、防犯カメラのある場所では、顔が確認できることが安全管理の前提になっています。

その延長で考えれば、全身や顔を完全に覆う服装に対して、社会が不安を覚えるのは非合理ではありません。

しかし一方で、「宗教だから一切疑問を持ってはいけない」という態度も、私は違うと思います。


宗教的自由は尊重されるべきです。
けれども、公共空間における安全、子どもの保護、本人確認、周囲の人々の安心感もまた、社会にとって重要な価値です。

 

問題は、顔や身体を極端に隠す衣服が、公共空間において人間同士の基本的な認識を困難にし、不安や恐怖を生みやすい構造を持っているということです。

 

顔や全身を覆う服装は、公共空間における本人確認や保護者識別を困難にし、子どもの安全管理や犯罪抑止の観点ではリスクを高める要素になり得ます。

 すなわち、誘拐や連れ去りを防ぐために重要な“個人識別”を困難にする環境を作ることに繋がります。


特に日本のように、顔の見える関係性、表情、距離感、周囲との調和を重視する社会で育った人間にとって、その光景が強い威圧感として映るのは、ごく自然な反応だったと思います。


この経験を通じて感じたのは、日本に住む全ての方が日本の文化に基づいて生活することの必要性です。イタリアやオランダでは、防犯上の理由から顔を覆うことが禁止されている例があり、日本でも同様の対策が必要だと考えています。たとえば、顔を隠すことで異性が本来入ってはいけないトイレや更衣室などの場所に容易に入れる可能性や、危険物を持ち込まれるリスクを未然に防ぐためです。日本の文化的背景を守ることは、日本に住む誰もが安心して暮らせる社会を築くための重要な一歩です。

私たちが中東に行けば外国人。私たち観光客が中東やモスクを訪れる際に、ハジャブやスカーフを着用することが厳格に求められるのは、その国の文化を尊重するためです。それと同様に、日本に滞在する場合には、日本の文化と治安を尊重して生活していただきたいと思います。20年後、日本文化が何であったのか、日本という世界一治安が良いと言われていた国は今や昔と、思い出せなくなる前に、私たちは行動を起こさなければなりません。

政府や関係機関に対し、日本の文化と治安を守るために、公共の場におけるハジャブ着用の禁止を検討するよう求めます。どうか皆さんもこの重要な問題について賛同し、この請願に署名をお願いします。


ご寄付は任意ですので、ご署名だけ頂くことでも全く構いません。

それでももし頂けるようでしたら、お気持ちに感謝し、大変ありがたくお受け取りさせて頂きます。
また、皆様のお気持ちを無駄にしないよう、最後まで一層の責任を持って提出させて頂きたいと思います。


代表 細野ナターシャ


私は2021年からトルコに移住し、仕事の拠点の多くをトルコに置いてきました。


日本で生まれ育った私にとって、トルコ、そしてイスラム圏の社会構造は、当初まったく未知のものでした。移住前は、トルコはイスラム圏の中でも比較的ゆるやかで、世俗的な国だと認識していました。しかし実際に暮らし、仕事をし、人々と関わる中で、私は宗教が単なる個人の信仰にとどまらず、時として信者ではない人々の生活、服装、行動、発言、女性の自由にまで強く影響を及ぼす現実を身をもって知ることになりました。


問題は、個人の信仰ではありません。


問題は、宗教的価値観が社会全体のルールとして押し出され、信じていない人、従いたくない人、異なる文化を持つ人にまで「従うべきもの」として迫ってくる構造です。


トルコの都市部では比較的自由に見える場面もありますが、内陸部に行けば行くほど、女性が外で自由に話すこと、男性と並んで歩くこと、スカーフを着用しないことに対して、強い視線や非難、時には罵声が向けられる場面があります。女性の服装や振る舞いが、本人の自由ではなく、周囲の宗教的価値観によって評価され、制限される空気があります。


これは日本で育った私にとって、大きな衝撃でした。


日本社会では、多くの人が特定の宗教を強く持たず、他人に信仰を押し付ける文化もほとんどありません。神社やお寺を大切にしながらも、それを他者に強制することは少なく、宗教はあくまで個人や地域文化の中に穏やかに存在してきました。


だからこそ、日本人は宗教的な主張に対して強く反論することに慣れていません。相手の信仰を尊重しようとするあまり、相手がこちらの文化や生活様式にまで踏み込んできた時にも、はっきりと線を引くことが苦手です。


私はそこに強い危機感を持っています。


多文化共生は大切です。異なる文化や宗教を持つ人々を、理由なく排除すべきではありません。しかし、多文化共生とは、一方の価値観だけを無制限に受け入れることではありません。


受け入れる側の文化、歴史、生活様式、安全、自由も同じように守られるべきだということです。


もし、イスラム教が「自分たちの信仰こそ絶対である」「なぜ断食をしないのか」「なぜ女性がその服装なのか」「なぜこちらの宗教的慣習に合わせないのか」と、他者にまで従うことを求めるなら、それはもはや単なる信仰の自由ではなく、他者の自由への介入です。


私は、イスラム圏で暮らす中で、この「押し付け」の構造を実際に見てきました。


そして、日本が同じ構造に対してあまりにも無防備であることに、不安を感じています。


イスラム圏では、神社やお寺を自由に建てることは不可能です。たとえ比較的ゆるいとされるトルコであっても、日本の神社やお寺が地域社会の中で受け入れられるかといえば、愚問というのが現実です。一方で、日本では「多文化」「宗教の自由」という言葉のもとに、モスクの建設や宗教的慣習の受け入れが進んでいくことがあります。


私はここに、強い非対称性を感じています。


相手の国では認められないことを、日本では無条件に認める。
相手の社会ではこちらの文化が尊重されないのに、日本では相手の文化だけを尊重する。
この一方通行の寛容は、本当の意味での共生ではありません。


また、日本における土葬の問題にも、私は懸念を持っています。日本は火葬を基本としてきた国であり、土地の狭さ、衛生面、地域住民の感情、地下水への影響など、現実的な問題があります。宗教的理由だけで、その土地に住む人々の不安や生活環境が軽視されるのであれば、それは慎重に考え直すべきです。


さらに、ヒジャブや宗教的服装についても、個人の自由として尊重されるべき側面はあります。しかし、それが女性の自由な選択ではなく、宗教的・家族的・社会的圧力によって強制されるものである場合、日本社会はそれを単純に「多様性」として美化してよいのか、慎重に考える必要があります。


私が問題にしているのは、宗教の名を借りて、女性の自由、個人の選択、日本の文化、地域社会の安心、そして信仰しない自由が侵食されていくことです。


信じる自由があるなら、信じない自由も守られなければなりません。
祈る自由があるなら、祈らない自由も守られなければなりません。
宗教的慣習を大切にする自由があるなら、それを他人に押し付けない責任もあるはずです。


私はトルコでの5年間の経験を通して、相手を尊重するだけでは自分たちの文化や自由を守れない場面があることを学びました。


日本人の優しさ、曖昧さ、相手を傷つけまいとする姿勢は美徳です。しかし、その美徳が利用される場合もあります。相手がこちらの寛容さを「尊重」ではなく「譲歩」や「支配できる余地」と受け取る場合、私たちは態度を変えなければなりません。


、日本という国が、日本人の生活文化、女性の自由、治安、地域社会の安心、そして無宗教でいられる自由を守らないまま、外部の宗教的価値観を無防備に受け入れていくことには、強く反対します。


多文化共生とは、日本側だけが我慢することではありません。
寛容とは、自分たちの文化を差し出すことではありません。
宗教の自由とは、他者に宗教を押し付ける自由ではありません。


私は、トルコで実際に暮らし、イスラム圏の現実を見てきた一人として、日本が同じ過ちを犯さないよう、声を上げていきたいと思っています。


日本の文化、日本人の生活、日本の女性の自由、そして信仰しない自由を守るために。


これが、私が活動する理由です。




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